広島県におけるスポーツの意味とは
事業・サービス
2020年7月3日
 皆様、こんにちは。広島経済大学経営学部スポーツ経営学科教授の藤口光紀です。    私は日本代表のサッカー選手、そして、プロサッカークラブの経営者としての活動を経て、現在はスポーツの世界を志す学生たちに、スポーツビジネスやクラブマネジメントについての講義を行っています。    もともと群馬県で生まれ育った私ですが、今年で広島生活もちょうど10年経過です。 故郷と同じくらい愛するこの地へ、スポーツのチカラを使って貢献するにはどうすればよいか? を常に考え続けています。    今回は、私が辿ってきたアスリートとスポーツビジネスの二軸の経験と共に、スポーツでつくる広島の未来、そして、これからのスポーツのあり方についてお話をさせていただきます。

スポーツに出会った学生時代

 私がスポーツの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、高校時代にサッカーと出会ったことでした。

 

 最近のプロサッカー界には小学生の時からサッカーを親しんでいる選手が多く、高校から始めたと聞くと、少し遅いのではないかと思う方もいるでしょう。しかし、私の学生時代は、プロ野球以外のスポーツがまだ市民権を得ておらず、サッカーのルールすら知らずに中学校を卒業することになったのです。

 

 そんな中15歳の私に転機が訪れます。入学した高校にサッカー部があったのです。入部当初はドリブルすら上手くできなかった私に、その後サッカーの師となる部活動の顧問の先生が熱心に指導してくださいました。サッカーの面白さを知った私は、みるみるうちに練習へとのめり込んでいき、日本のトッププレイヤーになりたいという思いに駆られます。

 

 高校卒業後、一年の浪人生活を経て進路先として選んだのが慶應義塾大学でした。入学後は慶應義塾体育会ソッカー部に入部、レギュラー入りを果たします。ちょうどその頃、1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得し日本のサッカー界は新しい人材を育成することを重視、アンダー24の日本代表選手の選抜を開始することになったのです。集められた何百人もの若手選手たちのなかに私も参加することとなり、幾度となく選抜が行われました。そして、ついに夢にも見た日本代表を、私は勝ち取ったのです。代表となったことで、海外での試合に臨むため、私はハンガリーとドイツへ初めての遠征で行くことになりました。初めて乗る飛行機と、初めて見る海外の地は、まだ大学生の私の心を刺激してくれました。

 

 大学卒業後は選手を続ける傍ら、三菱重工業株式会社へと入社します。仕事をしながらも、日本のサッカー環境をなんとか良くしようと、それこそ毎日奮闘していました。試合への出場を続けていましたが、32歳の時に膝に負った怪我をきっかけに引退を決意することに。

 

 その後は、日本でサッカーのプロサッカークラブを作りたいという悲願を胸に「浦和レッドダイヤモンズ」の立ち上げに、事業広報部長として加わりました。また、その後、Jリーグで事務局次長・理事を務め、日本のサッカー界の変遷を肌で感じてきました。

 

※ソッカー部:大学から部の公認をもらう際,“サッカー”ではなく“ソッカー”に発音が近いという初代主将の説により,慶應義塾体育会ソッカー部が正式名称となった(諸説あり)

 

Jリーグで見出した地域に根づくクラブ経営とは

 

 1992年に浦和レッドダイヤモンズを立ち上げて以来、クラブを運営していくにあたって、私たちが最も大切にしてきたことがあります。それは「応援してくれるサポーターの方々とのコミュニケーション」です。

 

 クラブの立ち上げ当初となると、クラブを強化する方法や、いかに売上を作るかに気が取られてしまうことがあります。しかし、私たちはサポーターの方々とコミュニケーションを取ることによって、地域に根ざしたクラブ作りを目指したのです。

 

 地域に密着したクラブ経営で思い出すのは、埼玉スタジアムにおける試合での出来事です。

 

 続きはSAH WebサイトSAH Sports Columnにてご覧ください。

 https://sa-hiroshima.com/column/details/000248.html

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